2017年4月8日土曜日

『黒狐の谷』刊行記念座談会〜桜の樹の下には、けだるいチベット文学翻訳家たちがいる〜

外国文学好きの茶人、佐倉舞(さくら・まい)さんのお招きで、満開の桜のもと開かれた「野点の会」にチベット文学研究会一同、参加してきました。当日の座談の記録をまとめましたのでどうぞお読みください。

茶人・司会:佐倉舞
チベット文学研究会:海老原志穂 大川謙作 星泉 三浦順子




佐倉 今日は皆さま、お忙しいなか、知江鴨庭園「野点の会」にようこそ。まずは自己紹介させただきます。私は佐倉舞と申しまして、子供のころからトールキンをはじめ、あまたの外国文学に耽溺しつつ育ってまいりました。

戦後まもなくでしょうか、外国文学がどんどん日本に翻訳され、爆発的に売れた時代がありまして、当時の翻訳者たちはけっこう経済的に潤ったとききますが、今となってはそんな話は夢の夢、現在の文芸翻訳者の方々は経済的に報われることなどほとんどないのに、骨身を削って、自らがこよなく愛する文学を日本語に移し替えるという偉業をなさっていらっしゃると思います。それはまた日本の文芸を、いや文芸のみならず日本文化そのものをさらに豊穣なものとするお仕事なのではないでしょうか。

外国文学ファンの一人として、翻訳者の方々に是非エールをおくりたいと思い、今回、チベット現代文学というあまり世に知られることのない分野の翻訳に携わっているチベット文学研究会の皆さまを、この野点の会にお招きいたしました。

3月末にチベット文学研究会の新たな翻訳書、『黒狐の谷』が出版されたそうで、そのお祝いをかねて、研究会の皆様にこの本のご紹介していただくとともに、翻訳の苦労話など存分に語っていただきたいと思います。


本来ならお抹茶をお出しするところですが、せっかくですので、星さんから頂戴したヤクの糞の燃料で火をおこしてまずはアムド式のミルク茶を作ってみした。お菓子はツァンパ(はったい粉)からの連想で麦落雁を用意いたしました。ちょうど桜も満開ですし、どうかくつろいでお話をなさってください。

◆闘うチベット文学?

ツェラン・トンドゥプ氏

佐倉 それではまず、星さんに作家ツェラン・トンドゥプの紹介をしていただきたいと思います。写真だけみるとけっこう精悍な、かっこいい人ですね。

 本にも掲載したプロフィール写真、すごくいいですよね。あれはツェラン・トンドゥプ氏(以下、ツェ氏)の自宅で海老原さんが撮影したものなんですが、彼のルーツを語る重要なアイテムが映っています。丸いのは何だかわかります?

佐倉 武器、ですか?

 ははは、本のツノ書きに「闘う」ってありますしね。いや、武器ではなくて、テントの一番上の、天窓の枠なんです。テントといってもチベット式ではなく、モンゴル式のゲルです。彼はチベット語で書く作家ですが、民族籍はモンゴル人なんです。彼の出身地はチベット文学界で活躍する作家や詩人をたくさん輩出していて、なかなか興味深いところなんですよ。ルーツについてはあとでお話しするとして、ともかくチベットの現代文学を代表する作家だということは強調しておきたいですね。チベットの現代文学の歴史は、1980年代からと新しいのですが、この作家は黎明期から創作活動を始めて、今に至るまでずっと書き続けている数少ない人のひとりです。チベット人の間ですごく人気があるんですよ。好きな作家を訊くと、多くの人が彼の名前を挙げます。短編小説は現地のチベット語教科書にも取り上げられたりしています。作品は英語やフランス語、ドイツ語、漢語などさまざまな言語に翻訳されていますよ。

◆モンゴル系のチベット語作家


佐倉 星さんと海老原さんは、ツェラン・トンドゥプ氏とけっこう交流を重ねているとお聞きしたんですが、実際はどういう方なんですか?

海老原 ツェ氏に初めて会ったのは2011年1月のこと。チベット文学で「ノーベル文学賞」に一番近い作家だ、といわれて友人に紹介されたのがきっかけです。

その時のアムド滞在では数々の著名な作家に会いました。中央民族大学のジャバ先生、ジャバ先生の親友でもあるタクブンジャ、そして、自伝的な小説がとても評判になっていたナクツァン・ヌロなど。その中でも現在に至るまで特に親交を深めているのがツェラン・トンドゥプです。今ではアムドに行ったら、ツェラン・トンドゥプの自宅に何度か立ち寄って、お茶を飲みながらいろんな話をして一緒にご飯を食べる、というがルーティーン化しています。ツェ氏の作品の翻訳計画は研究会の中でもだいぶ前からあったんですが、先に決まっていた翻訳をしているうちに何年もかかってしまいました。辛抱強く待っていてくれたツェ氏には感謝です。

 とにかく親切な人です。チベット語の翻訳は、辞書が整っていないこともあって、メジャーな言語に比べてかなり大変です。だから辞書をいくら調べても出てこない単語やフレーズの意味を作家に直接質問したり、というのはよくあります。彼は質問をするといつも的確な返信をスピーディーに返してくれるのでありがたかったですね。

質問はほとんどの場合チャットでしてます。直接会いに行って質問ができれば最高ですが、なかなかそうもいかないので。ときにはこちらが分かるように絵を描いてくれたり、写真を探してきてくれたり、労をいとわず助けてくれます。

作品の質問だけでなくて、私がチベット人の書く長編小説に関心をもっていると知るや、情報収集をして教えてくれたりも。そういうところ、いつも感謝してます。

あと、話し好きですね。面白いネタをいっぱいもっています。作品を読むと、皮肉と笑いがセットになっていることがわかると思いますが、彼のおしゃべりもそんな感じです。ニヤニヤしながら、穏やかな語り口調でなかなかすごいことを言っています。びっくりするほど声が小さいんでちょっと困っちゃうんですけど(笑)

子供の頃は口より先に手が出るくらいのやんちゃ坊主だったらしいですが、書くようになってからはペンでパンチを繰り出すようになったのかな、と思ってます。

佐倉 翻訳の不明点を作家当人にチャットで質問できるとは、実に便利な時代になったものですね。新たな時代の幕開けを感じさせます。

とこで、モンゴル系でありながら母語はチベット語、彼の文化的アイデンティティーはどうなっているんでしょうか?

海老原 彼の文化的アイデンティティーとか民族意識について理解するには、出身地であるソクゾン(青海省河南モンゴル族自治県)についてふれないといけません。青海省には各地にモンゴル人居住地区がありますが、その中でもソクゾンは言語的、文化的に特異な場所なんです。それは、300年ほど前にこの地に移住してきた彼らが、この一帯を統治していた親王のチベット語教育の推進や文化のチベット化の政策のもとで、母語であったモンゴル語を話せなくなり、チベット語を母語として使用するようになったということです。このあたりの経緯は「訳者解説」に詳しいのであわせて読んでいただけるとよいと思います。

ツェ氏本人のアイデンティティーは、「私の骨はモンゴル人。しかし、この人生で私が話してきたのはチベット語であり、得てきた知識もチベット文化のものである」という言葉に凝縮されています。

大川 補足ですが、河南モンゴルは確かにかなり興味深い人々で、この人たちについては日本語でいい研究書があります。シンジルトさんという人が書いた『民族の語りの文法:中国青海省モンゴル族の日常・紛争・教育』(風響社、2003年)という本です。河南モンゴルの人たちの民族意識の問題についても詳細に論じられています。この本は彼の博士論文ですが、シンジルトさんは内モンゴル自治区出身のモンゴル人なので、同じモンゴル人でありながら言語や文化が違う人たちの間に混じって調査するということになるわけで、それ自体とても面白い事態ですよね。さらにその経験を日本語の民族誌にするということをやっているわけで、大変興味深いです。あと、この民族誌の中では例えば草地争いによる殺し合いみたいな、ツェ氏の小説で取り上げられているテーマの実例が分析されていたりもします。ツェ氏はシンジルトさんの調査に協力したということなので、これはきっと関係あるんじゃないかな。

◆一押し作品とキャラクター


佐倉 次に『黒狐の谷』に収録された中・短編のなかで、皆さん一押しの作品と好きなキャラについて語っていただけますか?

 うーん、一つにしぼるのは難しいなあ。ダメ男が描かれている作品が好きな人(いますよね? 私もそうだけど)には「ラロ」と「美僧」がおすすめですけど、どちらかというと「ラロ」かな。ラロっていうのは主人公の名前です。この人の突き抜けたアホっぷりがたまりません。ワルじゃないんです。正直でいいやつなんです。たぶん牧畜民としての能力はかなり高いんじゃないかと思うんですけど、学校とか、組織の中では求められている能力を発揮できない。そういうヤツですね。三浦さんが「虱から見たチベット現代文学」というエッセイでも書いてますけど、豚箱に放り込まれたラロが虱を喰らうところなんて、ものすごいインパクトのある描写で。朝、お弁当の用意をしていてゴマをすってたりするとゴマ粒が虱に見えてきて怖いときありますもん。

海老原 同じ「ラロ」でも私の印象に残っているのは中年男ラロをまんまと籠絡した婆さんのグルキのほうですね。骨髄油をぬったくってたかてかした黒髪にプラスチック製の安っぽいアクセサリーを身に着けて若作りした姿がすごくリアルに浮かんでくるんです。この時グルキが60歳くらいでラロは40歳くらいなので、年齢差は実に20歳ほどあるんですが、年齢などものともせず伏し目がちに時に大胆にラロにせまるグルキには女性のしたたかさを感じますね。今まで読んだチベット文学作品にはいなかったキャラかも。

三浦 あー、それ私も思いました。60歳ぐらいになったチベットの女性って、マニ車回しながらお寺にお詣りして、せっせと来世のためにマニ唱えているというイメージがあるのに、この濃いキャラはなんだと。

ところで星先生の好きなキャラに黒い疾風を出してこないのが意外でした。銃弾鳴り響き、硝煙立ち昇る中、垂れてきた髪を銃口で恰好よく耳にかけてみせる野生児。

 黒い疾風は私にとってはアイドル的存在で、素直に口にするのは気恥ずかしいところがあります。このキャラは「黒い疾風」という作品の主人公なんですよね。恋人を取りもどすために荒野をさすらう孤高な男はまるで映画の主人公みたいでかっこいいんです。黒い疾風は牧畜民の男の好戦的な部分を象徴する存在じゃないでしょうか。ラロとは好対照ですが、真っ正直なところは共通していると思います。で、三浦さんはどうなんですか?

三浦 いやーなんといっても「地獄堕ち」で颯爽と登場した化身ラマのアラク・ドンですよ。この時のアラク・ドンの恰好よさときたら、女だったら一目ぼれですよ。なにせ地獄に堕ちた腐れ役人を、閻魔の手からかっさらってくるんですから。このアラク・ドンというキャラは「地獄堕ち」のみならず、この本の中・短編に時に主役、時に端役として出演してるんですが(手塚治虫のマンガにでてくるスター・キャラクターみたいなもの)、ある時には神通力あるラマ、ある時には金にがめつく、女にも手をだすどうしようもない堕落僧として登場して笑わせてくれます。いっそのこと、彼の登場する短編ばかり集めた選集をつくってほしい。

 三浦さんはほんとにアラク・ドンが好きですね。今回の邦訳作品集だってアラク・ドン率めちゃめちゃ高いですよね。作品を選ぶときにアラク・ドンが登場するかどうかで決めたのもありましたもん。で、一押し作品はやっぱりアラク・ドン主役の「地獄堕ち」ですか?

三浦 確かに、「地獄堕ち」は私のツボですね。地獄に堕ちた衆生を神通力のある仏の化身が救い出すっていうのは、昔なつかしの仏教説話にありそうな話じゃないですか。まあ元ネタはケサル王の話ですけど。すっかり現代化が進んで、パソコンやらインターネットも導入された地獄の描写なんかも遊びが多くて楽しいです。

あとはやっぱり「ラロ」ですかね。社会の規則に縛られない阿呆な人物が右往左往してトラブルを引き起こすありさまを描くことで社会の実相がみえてくるタイプの小説ですね。「ラロ」は前半部だけでよかったんじゃないかという意見がチベット人の間にあるそうですが、後半部、語り手(ツェラン・トンドゥプの分身)がラロといっしょに豚箱入りしてからの怒涛の展開がなければ、あれほどの傑作にならなかったんじゃないか。特に拘置所内で顔をあわせる一癖も二癖もある囚人たちの人間模様が面白い。

時間のない方は表題作の「黒狐の谷」と、あと「ブムキャプ」だけは読んでもらえれば。「黒狐の谷」は生態移民の実情がよくわかるし、ブムキャプはチベットの腐れ役人の腐れっぷりがありありと描かれていて笑えます。タクブンジャの「ハバ犬を育てる話」とちょっと感じが似てますよね。

佐倉 「ブムキャプ」と「ハバ犬」が似ているという話がありましたが、『黒狐の谷』に収録されている「世の習い」もタクブンジャ「一日のまぼろし」(『ハバ犬を育てる話』)を彷彿とさせますよね。チベットの現代作家たちというのはお互いに影響与え合ったりとか、別の作家のとりあげたテーマを自分なりに書いてみるというのは多いのでしょうか?

 影響を受けたかどうかという点はたぶん言わぬが花だろうと思いますが、オマージュはわりとしてるんじゃないかと思いますね。例えばラシャムジャの『雪を待つ』の四人の主人公のひとり、やんちゃ坊主のタルペは「ラロ」のイメージを使ってますね。たとえば分かりやすいのは青っ洟をぶらぶらたれてるところとか、極めつきはお下げをぶちっと切られてしまうエピソードと、俺のお下げはヤク一頭分の価値があると主張するところですね。そもそも学校の勉強ができないところもラロですね。「ラロ」は非常に人気のある小説なので、ピンとくる読者はそれなりにいて、オマージュしがいがあるんじゃないでしょうか。映画にもなったペマ・ツェテンの「タルロ」も「ラロ」を彷彿とさせるキャラクターですね。

英雄叙事詩『ケサル王物語』の「地獄に堕ちた妃の救出」篇を下敷きにした「地獄堕ち」も、オマージュといっていいんじゃないですかね。一部じゃなくて全編なので、リミックスといったほうがいいかもしれませんけど。元ネタの物語を読んでみたら、人間界のありとあらゆる悪事が描かれてて、今も昔もなんにも変わってないって感じですごく面白かったです。

古典つながりで私が思っているのは、「黒い疾風」の主人公の男が途中から黒づくめの出で立ちになるところは、チベット帝国を終焉に追い込んだ、有名なラン・タルマ王殺害事件の下手人ラルン・ペルキドルジの黒装束を重ね合わせているように思いました。心は真っ正直で白いけれども意を決して復讐を遂行する人間としての黒装束。チベット史のダークヒーローとの重ね合わせになってるんじゃないかなと。

ツェラン・トンドゥプは海外文学をよく読んでいるので、海外文学を元ネタにしたオマージュは結構やっているのではないかと踏んでいます。ガイブン好きの方が読んだら分かるかも。すいません、ちょっと話を広げすぎましたかね。

佐倉 あとのお二人のおすすめ作品は?

大川 一つに絞るのは難しいですが、「復讐」と「兄弟」の二編が特に好きです。それぞれ、ぼく自身がチベットで触れて驚いた現実(ぼくの場合は主としてカムですが)を描いているように感じました。カムでは「三人殺すと刑務所に入らないといけない」と言われていて、逆に言うと二人くらいは殺しても話し合いと賠償で解決するということがある。そういうと何だか無法地帯みたいですが、そうではなくてやはりチベットなので実は厳しい監視下に置かれていて、それはある意味で中国の中でももっとも法律的に厳しい場所なんですが、しかしチベット人同士が殺しあうなら干渉しないよ、というのが現地の公安なんかの態度なんですよね。高度監視社会なのに殺人が法で裁かれないという何かSFのような世界でした。ツェ氏の作品はそういう現実をうまく描いているなと思いました。

 「復讐」は私も好きな作品です。親が殺されたら息子が復讐に立ち上がる、というのは連綿と受け継がれてきた現実なんだなと思わされます。殺しの描写に迫力があって、翻訳していてゾクゾクしました。

海老原 どの作品にももちろんそれぞれよさがありますが、自分の趣味で言うと「美僧」が好きです。僧侶の還俗というテーマ自体、チベットでは表立って語ることはタブーのようになってますが、そのテーマをあえて選んだあたり、さすがツェラン・トンドゥプだなあと思いました。人間の弱さが存分に描かれている点もポイント高いです。最後のあたりの、カムから来た僧侶たちと美僧のやりとりも漫画みたいで面白かったです。

 「美僧」は主人公の懊悩ぶりがすごいですよね。笑えるほどひどく悩んでるんだけど、実は私たちの脳内も日常的にああいった葛藤を繰り返しているところがあって、そのあたりずんときますね。実は彼の作品の中で内面の葛藤をここまで書いたものってないですよね?

海老原 そうなんです。ツェ氏の作品は大きなストーリーがみごとに描かれているものは多いんですが、人間の内面を扱ったものはそれほどないように思います。その点でも特筆すべき作品かと。

◆作品の特徴


 

佐倉 チベット文学研究会の皆さまがこれまで訳出されたチベット現代文学の翻訳は、トンドゥプジャの『ここにも激しく躍動する心臓がある』(勉誠出版 2012)、ペマ・ツェテン『ティメー・クンデンを探して』(勉誠出版 2013)、ラシャムジャ『雪を待つ』(勉誠出版 2015)、タクブンジャ『ハバ犬を育てる話』(東京外国語大学出版会 2015) の4冊で、『黒狐の谷』で5冊目になりますが、これまで訳してきた作家のたちの作品と比べてどういう印象を受けられましたか?

 怒りと笑い、悲劇と喜劇が背中合わせになったような作品を得意とする作家だなというのは感じます。それを一番強く感じたのは彼の長編を読んだときです。悲惨な収容所生活での出来事が中心のひたすら辛い話なんですけど、そんな中にも笑いがこみ上げてくるエピソードがいくつも挿入されていて、涙も乾かないうちに笑ってしまうという読書体験でした。

人間を常に外から客観的に見ているという印象も受けます。内面に迫るような書き方はむしろ少なくて、外から距離をとって物語を書いているように思います。その書き方ゆえ、作品によっては物足りないと思うこともありますが、真に迫った殺しのシーンなんかを読むと、ドライな筆致が合っていて、いいなあと思ったりもします。そういえば、今まで翻訳した中ではここまで殺人の場面を描きこんだ作家はいなかったのでは。

三浦 「復讐」の、親父の仇を息子が刺し殺すシーンなんて、実に迫力ありますよね。「ズザッ、ズザッ」という肉や筋や骨が切れる音がした」とか。「黒い疾風」の主人公が銀貨を宙に放り投げて、その真ん中を打ち抜いてみせるなんて西部劇ですよね。アメリカに生まれていたらハードボイルド小説とか書いていたかもしれない。

トンドゥプジャは作家としてスタートしてすぐに亡くなってしまったし、ペマ・ツェテンは小説も書くけど、やはり映画作家の局面が強い。タクブンジャはこれから小説家としてどう展開していくのかな? ツェ氏はとにかく持っているポケットが多い。いろいろなテーマで書ける作家ですよね。勉強家だし。

 そうそう、エイズとか生態移民村の問題とか、現代的なテーマを積極的に取り上げてますよね。「あるエイズ・ボランティアの手記」などは、執筆にあたって病院関係者にインタビューを重ねるなど、事前調査に余念がない人ですね。

大川 幅広い作風の作家だなという印象ですね。作家ごとにいろいろと得意分野はありますが、この人の場合はコミカルなものからSF風のもの、社会派のものまでいろいろと書き分けることができる作家ですね。これまで訳した作家との違いはそこなんですが、むしろ共通性みたいなものも強く感じました。社会批判の精神やユーモアと毒、そして語りの巧みさなどはむしろこれまで我々が紹介したチベット作家の多く(全員ではないですが)に共通する要素なんじゃないかなと思います。

◆翻訳の難しさ


佐倉 皆さんが翻訳されていて、大変だった部分、うまく訳せずに残念だった部分を教えてください。

 いつも難しいなあと思うことなんですけど、地形がなかなか把握できない。地形を表す単語がどんな地形のどの部分を指しているのかを理解するのが難しいです。例えばある単語を「峠」と訳すべきか「尾根」と訳すべきかで迷ったり。結局、同じ単語を「峠」とも「尾根」とも訳しました。頭で思い浮かべるだけで分からないときは、絵を描いたりもして、結果的に誤訳を見つけたりもしました。

それと、「黒い疾風」では銃の用語がたくさん出てくるんですが、銃のことなんて何も知らないから、ずいぶん調べました。辞書に出てこないんですよ、銃の細かい部分の名称は。だから著者にも何度も質問したんですが、それこそイラストにして教えてくれましたよ。彼のお父さんが地域でも有名な腕のいい鍛冶屋で、大勢の男たちが銃を持ち込んでお父さんに修理を依頼したりしていたというので、彼は銃にはやたら詳しいんですね。

「河曲馬」では登場人物の台詞の訳し分けで苦労しましたね。ずいぶん共訳者のみなさんにご指摘いただいて整えたのですが、うまく訳せているか自信はありません。大学を出ている人物か、よその土地に出たことのない人物か、男か女か、町で話しているのか、村で話しているのか、誰と話しているのか、知り合ったばかりの相手かよく知った相手かを配慮しつつ、読んだときに人間関係がすっと頭に入るような台詞にしなければならないので、ずいぶんやり直しました。最後はExcelに全ての台詞を書き出して、口調を調整するなどしました。

海老原 ペマ・ツェテンの作品にもありましたが、数字が合わないのは悩みますね。今回は「エイズ・ボランティアの手記」で、計算すると現時点が2017年以降になってしまう、という問題がありました。けっきょく、200X年、として対応しましたが。ちなみに、ツェ氏は算数が苦手だと自分でも言ってます。

 本人の問題というのもあるでしょうけど、チベットの出版社はそういうところにゆるいですよね。編集とか校正の段階で修正されてなくて。

海老原 そうですね。そのあたりは今後改善されることを願っています。他にも、文脈からは読み取れない、かつ、物語の伏線にもなっていない描写が「ラロ」にあったりしましたね。ねえ、三浦さん。

三浦 ああ、「ラロ」の十章で、ラロが食堂にはいって、役人風の男の手から鍵を受け取って、女とともにどこかにいってしまう謎のシーンですね。大川さんから意味わからないと何度もツッコミがはいって、いくら考えてもわからず、ツェ氏当人に訊いたら、役人風の男はラロのもと同級生で、ラロに頼まれるまま自分の部屋の鍵を貸したんだと。ようするにラロは知人の部屋を連れ込み宿がわりに使ったわけですね。でもそれについては本文中に何の説明もないので、日本人が読んだらなんのこっちゃですよね。チベット人ならあのシーンを読めば普通に理解できるんだろうか?

あとラロはだしぬけに時間軸がかわるので(現代のことを語っているかとおもったら急に過去のエピソードが飛び出す)、訳していて頭が混乱しましたね。日本語にするときには、一行あけて読者の皆さんにはわかるようにしましたが。

残念だったのは、「地獄堕ち」で、腐れ役人県長を地獄から解放してやろうとアラク・ドンが閻魔大王に訴えかけるシーンがあるんですが、その詩がせっかくチベット語のアルファベットの折句になっているのに、それをうまく日本語に訳しきれなかったことかな。ゲンドゥン・チュンペルの書いた詩にもありましたよね。

大川 日本語の特徴として、人称や言葉遣いなどで性別や年齢や階級がかなり明示的になってしまうという問題があります。これは彼の作品だけの問題ではなく、中国語から訳すときも英語から訳すときもそうであって、日本語の問題ですが。同じ一人称でも「私」か「俺」か「ぼく」と訳すかでかなり印象は変わりますし、二人称の「あなた」「アンタ」「お前」「君」なんかでもそうですよね。ここらへんはもっと語感が鋭ければ多少は解決されるのでしょうけど、やっぱり日本語にするときには解釈をしないといけないわけです。ぼくが親しんでいたチベット人はわりと荒っぽい人たちなので、どうも訳文の言葉遣いが荒っぽくなりがちという傾向が自分にはあるのかな、と思います。その分いろいろと解釈できて訳者としては深く読み込む必要があって楽しいのですが。

◆チベット文学研究会の今後の展望


SERNYA最新号
佐倉 チベット文学研究会が結成されてすでに十年以上たつそうですが、これからの展開について教えてください。

海老原 個人的な野望としては、チベット文化圏で描かれている文学を概観したい、というのがあります。最近では、SERNYA4号にも寄稿したインド北西部、ラダック地方で書かれた小説に注目しています。また、ブータンの文学にも興味を持っています。

三浦 ゾンカ語で書かれた小説ってあるんでしたっけ?

海老原 ブータンの最近の文学は英語で書かれたものが多いようです。どの言語を選択するか、という点も地域差がありますね。ちなみに、さっき言及したラダック地方の小説というのはチベット文字で書かれているんですよ。

 話をもどしますが、研究会の展開、ということでいえば、これまで東北チベット(アムド)の作品の翻訳ばかりしてきたので、中央チベットの小説なんかも訳してみたいですね。最近の恋愛小説もいいのがあったら読みたいなあ。

おもしろい作品はないかと常に書店をチェックしたり人にきいたりしてアンテナはってます。

大川 遠大な野望はあるのですがそれはさておき、具体的な話としてはペマ・ツェテンの訳書(作品集になりますが)をもう1冊、単行本で出したいですね。勤務している大学が幸いに中国語中国文化学科なので、ゼミなどで学生と一緒にペマさんの作品を読んだりしてますが、やはり突出したものがある作家だと思っています。前の訳書に収録していない作品の訳も少しづつ発表していますし、何年かかけてもう1冊出せればなと思っています。それから、翻訳だけではなくて、それを基礎としてやはり文学研究としてチベット作家たちをきちんと評価してあげたいなと思っています。あとはやはりラサの歴史もの小説は、現代史やっているものとしてはとても面白いので、どこかで紹介できればなと思っています。

三浦 これからチベット文学を翻訳してみたいという人がいるなら是非声をかけてください。一文の金にもならない(いや、もちだしの方が多い)、現世ではなんら報われることのない世界にようこそ! 歓迎いたします。チベット語を勉強しがてら、試しにチベット語小説の短編を翻訳してみたい方はどうぞ。ちゃんとご指導いたします。

 いいですね。今後、文学作品の翻訳にチャレンジする人が増えるといいなあと思っています。面白い作品はたくさんあるので、いろんな関心を持った人がタイプの違う作品を読んで紹介してくれるようになるといいなあ。漢語チベット文学を紹介する人も増えてほしい。

研究会としては、現代チベット語で小説を読みたい人のためのテキストを編んでもいいんじゃないかな。文法解説あり、翻訳のアドバイスありの、原文つきのテキスト。

三浦 将来の展望。イグ・ノーベル賞じゃないけど、セルニャ文学賞を創設、その年一番の傑作の作品に金魚像を贈る。

 面白い! 金魚像が目に浮かぶ〜。金の魚、銀の魚とか。読む人を増やさなきゃいけませんね〜。

三浦 チベット文学の翻訳点数が増えてチベット文学辞典とか、チベット文学料理辞典とかができるまでがんばりたいものです。

佐倉 そろそろ風も強くなってきましたりで、この野点の会、おしまいにさせていただきます。『黒狐の谷』、大勢の人が読んでくれるといいですね! 

三浦 ありがとうございます。お茶、とても美味しかったです。これはチベット文学研究会から佐倉さんへのプレゼントなんですが、研究開発中の「ヤク肉の削り節」です。ヤクの肉を干したものを鰹の削り節みたいに削ったものですね、これをパラパラっとお湯にいれると、すばらしい肉だしがとれます。

佐倉 うわー、珍しいものをありがとうございました。こちらかも皆さまに、というか作家ツェラン・トンドゥプにささやかなプレゼントがあります。知り合いのネット絵師のgismomimayin氏が「地獄堕ち」からインスパイアされたとアラク・ドンの肖像画を描いてくれました。どうかお納めください。


チベット文学研究会一同 (爆笑)今日は本当にありがとうございました。またの機会を楽しみにしております。