2020年12月25日金曜日

『風船 ペマ・ツェテン作品集』出版

文・大川謙作

2020年12月、ペマ・ツェテンの2冊目の邦訳作品集『風船 ペマ・ツェテン作品集』が出版されました!


ペマ・ツェテン著(大川謙作訳)『風船 ペマ・ツェテン作品集』(春陽堂書店、2020年)、2,000円+税、256頁。写真は春陽堂書店提供。

ペマ・ツェテンはチベット母語映画の牽引者として名高い映画監督であり、その映画は国内外で数々の受賞歴を誇っています。日本でも東京フィルメックスで最優秀作品賞をはじめ多くの賞を獲得しており、映画ファンの間では徐々に知られる存在となりつつあります。そしてまた、ペマ・ツェテンは、チベット語と漢語で創作を行うバイリンガル作家でもあり、我々チベット文学研究会は長年にわたって彼の小説を日本の読者に紹介してきました。すでにその邦訳作品集『チベット文学の現在 ティメー・クンデンを探して』を2013年に出版しており、またその後も本誌『セルニャ』において、度々その小説の翻訳を掲載していますので、『セルニャ』の読者にはお馴染みの作家でしょう。どちらかといえば映画監督として高名な人物ではあったのですが、近年では中国において数々の文学賞を受賞し、またその小説が多くの国で翻訳紹介されていくなど、文学者としての評価も高まってきています。映画監督としても小説家としてもきわめて精力的で生産的な芸術家であるといえます。

この度、その映画『羊飼いと風船』が劇場公開されることになりました(2021年1月22日よりシネスイッチ銀座をはじめとして全国公開)。ペマ・ツェテンの映画としては初めての日本での劇場公開となります。これまでは、映画祭などで高い評価を得てはいても劇場での一般公開というかたちでペマ・ツェテン映画を鑑賞する機会がなかったので、これは大変嬉しいニュースです。ペマ・ツェテンを知る人からすれば、ようやく、という感じでもあります。そしてこの映画公開に時期を合わせて、『羊飼いと風船』の原作である「風船」も収録した2冊目の日本語版作品集も出版することになったのです。映画と小説、双方でチベットの地が生んだこの優れた表現者の芸術世界に触れることができる絶好の機会になると思います。

本書には、表題作の「風船」の他、やはり映画の原作である「轢き殺された羊」などの小説六篇に加え、自伝的エッセーも収録し、また訳者解説も付しています。ペマ・ツェテンの小説は、時に生死のあわいをやすやすと乗り越えるような幻想性を備えたものから、チベットの「いま」を鋭くえぐりとった写実的な作品まで実に幅が広いのですが、いずれの作品もシンプルながらも非常に力強い硬質の文体が特徴で、読者を一瞬にして「映画では出会うことのできない、もう一つのチベット」(ペマ・ツェテン)へと連れさっていくような力を持っています。多くの読者にペマ・ツェテンの世界に触れて欲しいなと願っています。

小説『風船 ペマ・ツェテン作品集』春陽堂書店公式サイト

映画『羊飼いと風船』オフィシャルサイト

 

著者紹介
ペマ・ツェテン
1969年、中国青海省海南チベット族自治州貴徳県(チベット、アムド地方ティカ)生まれ。チベット語と漢語の双方で執筆を行うバイリンガル作家であり、またチベット母語映画の創始者とされ、数々の国際映画祭にて受賞歴を持つ映画監督でもある。

収録作品紹介(『風船』訳者解説より一部抜粋)
よそ者
僻地の村を訪れた、謎めいた「よそ者」がドルマという女を探し求めるが、女はなかなか見つからない。登場人物が何かを探し求めるが、それを見出すことができないというこのテーマは、いかにもこの作家らしい。何かがこの世界から失われており、我々はそれを探すが容易には見つけ出すことができず、そうこうするうちにそもそも何が失われてしまっているのか、何を探し求めているかすらもあやふやになっていく。そんな不安な感覚を描きつつも、村人たちと「よそ者」のやりとりを描写する作家の筆致からは巧まざるユーモアが感じられ、登場人物たちに注がれる作家の眼差しはどこか暖かい。

風船
チベットの牧畜民たちの生活を細やかに描写しながら、性と生殖を主題としつつ、羊と人間の関わりを通じて現代チベット女性の苦悩を描いている。幻想性を排除した硬質の文体が印象深い。作品において、羊は、急速な都市化や経済発展の中で失われつつあるチベットの伝統的な生活の象徴としても扱われる一方で、長らく「産む性」としての役割を期待されていたチベット女性たちのメタファーとしての役割も果たしている。

九番目の男
本作品は九つのパートに分かたれ、主人公ヤンツォと彼女の体を通り過ぎていった九人の男たちの物語が次々と展開していく。平易で短い文章をたたみかけていくような文体は、会話が多用される文章構成ともあいまって、どこか民話的とも寓話的とも言える印象を読者に与える。世界に対する好奇心に突き動かされて外の世界に出て、そして最後には世界に対する信頼を失うというヤンツォの経験は、「喪失」というこの作家のテーマとも深く関連するものである。

黄昏のパルコル
ペマ・ツェテンの小説には珍しく、一人称で物語が展開する。とはいえ、物語の語り手である「私」はどうやらラサに長く住んでチベット語を理解できるようになった漢人のようだが、その正体はあまり明らかではなく、主人公というよりは単なる観察者といった役割を担っている。本作品の魅力は、漢語しか話せない漢人旅行者とチベット語しか解さないチベット人老婆とのディスコミュニケーション状況の描写である。拙いながらも唯一のバイリンガルであるチベット人少年が登場しており、状況を逆手にとって事態を自らの思う方向にミスリードしていこうとしているところに妙味がある。漢語で書かれてはいるものの、読者は常にそのやり取りが何語でなされているのかについて自覚的にならざるをえず、単一言語(漢語)による描写の背景にチベット語と漢語が混じりあって響いているのを感じ取ることができる、非常に意欲的な作品といえる。

轢き殺された羊
自ら轢き殺してしまった羊の魂の救済を求めてチベット高原を走り抜ける長距離トラックの運転手を主人公としたロード・ストーリーである。写実的な描写には迫力があり、読者はチベットの田舎道に舞う土ぼこりを身に浴びているような錯覚に襲われるだろう。本書所収の「風船」、前邦訳作品集に収録した「八匹の羊」「タルロ」、さらには本邦未訳の「吾輩は種羊である」など、ペマ・ツェテンは羊の登場する作品を多く発表している。

マニ石を静かに刻む
月明かりの形象が美しく、読後に深い余韻を残す絶品。作中では大酒飲みのロプサンの夢の中での死者たちとの対話が基調となって物語が展開していき、読者は生と死の境界、そして現実と夢幻の切れ目がぼやけていくような感覚を味わうことになる。夢を通じて死者と交流するというモチーフはチベットの伝統に存在するものであり、ペマ・ツェテンも「チベットの読者は、この作品を読んでも作り話だとは思わないかもしれない」と述べている。

三枚の写真から
青少年時代の姿をうつした三枚の古い写真をめぐる作家の自伝的エッセー。三枚の写真のすべてのエピソードに映画と文学が登場しているところがいかにもペマ・ツェテンらしい。幼少時より文学と映画への愛は変わらないのだなと思うとなぜか嬉しい。これまであまり語られてこなかった作家の少年時代のエピソードが語られている貴重な記録である。