ブラックユーモアが冴えわたる! 闘う作家ツェラン・トンドゥプ傑作小説集『黒狐の谷』

 2017年3月、ツェラン・トンドゥプの邦訳傑作選『黒狐の谷』がついに刊行になります。チベットでも屈指の人気を誇るこのベテラン作家は1980年代に産声を上げたチベットの現代文学の誕生と発展の歴史とともに歩んできた人物です。ドライで機知に富んだ文体から紡ぎ出されるブラックユーモアに満ちた作品の数々は日本の読者にもきっと楽しんでいただけるはず。チベットのイメージがガラガラと崩れる「毒」があちこちに仕込まれているのでご注意あれ。生態移民、エイズの流行、官僚政治の腐敗—本書を一読すればなによりもリアルなチベット世界を知ることができます。
 およそ30年にわたる作家活動の中で生み出された数多くの作品の中から、珠玉の短編15篇、中編2篇を掲載。訳者による解説つき。


出版情報
著者 ツェラン・トンドゥプ
訳者 海老原志穂、大川謙作、星泉、三浦順子
ISBN  978-4-585-29142-8
判型 四六判上製 416頁
刊行 2017年3月 (予定)
発行 勉誠出版
定価 本体3,400円+税
装丁画(左) ツェラン・トンドゥプ (著者と同名の画家)









著者紹介
ツェラン・トンドゥプ
 (ཚེ་རིང་དོན་གྲུབ། / 次仁頓珠 / Tsering Döndrub)
著者近影(撮影:海老原志穂)
1961年、チベット・アムド地方ソクゾン(中国青海省黄南チベット族自治州河南モンゴル族自治県)の牧畜民家庭に生まれる。祖先はチベット化したモンゴル人で、民族籍もモンゴル族。黄南民族師範学校を卒業後、1983年に短編小説「タシの結婚」(未邦訳)で作家デビュー。青海民族学院、西北民族学院で文学について学んだ後、1986年に故郷に戻り、司法局に勤務しながら創作活動を続ける。その後、県誌編纂所に異動し、県の十年鑑の編纂業務に従事するかたわら数多くの小説を発表する。県誌編纂所所長、档案局局長を経て退職、現在は創作に専念している。チベットの現代文学を代表する作家の一人。作品は様々な言語に翻訳され、国際的にも名高い。代表作に長編小説『赤い嵐』、『僕の二人の父さん』(いずれも未邦訳)など。好きな作家として、ゴーゴリやチェーホフ、カフカや芥川龍之介などを挙げる。


著者からのメッセージ
ཕངས་པ་ཞིག་ལ་མ་མཐའ་ཡང་མིག་སྔར་ང་རང་ཉི་ཧོང་གི་ཀློག་པ་པོ་དང་མཇལ་ཐབས་བྲལ། དགའ་འོས་པ་ཞིག་ནི་ངེད་ཀྱི་བརྩམས་ཆོས་ཁག་ཅིག་ཉི་ཧོང་གི་ཀློག་པ་པོའི་སྤྱན་སྔར་ཕུལ་ཐུབ་སོང་། ཁྱེད་རྣམ་པས་ངེད་ཀྱི་སྒྲུང་གཏམ་འདི་དག་བརྒྱུད་ནས་བོད་ཀྱི་དེང་རབས་རྩོམ་རིག་གི་སྤྱི་ཁོག་ཙམ་མཁྱེན་པར་སྨོན། དེ་བས་ཀྱང་བོད་ཀྱི་གནས་ཚུལ་རགས་ཙམ་མཁྱེན་པར་སྨོན།

                          ཚེ་རིང་དོན་གྲུབ་ནས་གུས་ཕུལ།
                                2017ལོའི་ཟླ3ཚེས7ཉིན།
あいにく日本の読者の皆さまに直接お目にかかることはかないませんが、幸いなことにこうして傑作選をお届けすることができました。皆さまが私の小説を通して、チベット現代文学の現状、ひいてはチベットの現在の姿を少しでも知ることができますように。
                     ツェラン・トンドゥプ
                        2017年3月7日


©Tsering Döndrub


収録作品紹介(訳者解説より転載)

地獄堕ち(共訳)
役人の汚職と閻魔の裁定を面白おかしく描く。英雄叙事詩『ケサル王物語』中の「地獄に堕ちた妃アタク・ラモの救出」篇のパロディで、著者が古典をふまえて新境地を開拓した記念碑的な作品である。対話を韻文で歌い上げるスタイルも『ケサル王物語』をなぞっている。原題は「民衆が大いに喜ぶ劇」で、劇中劇(いわゆる劇オチ)の形式をとった作品である。閻魔大王の前で暴かれる役人の悪事の数々には20世紀のチベット激動の歴史が織り込まれているが、その筆致は見事なまでに小気味よく軽やかである。『民間文芸』20周年記念文学賞受賞。

ツェチュ河は密かに微笑む(三浦順子訳)
アラク・ドンの不義密通とその後始末のつけ方を皮肉たっぷりに描く。

黒い疾風(はやて)(星泉訳)
千戸長に恋人を奪われた青年の復讐劇であり、熱血漢だが身の回りのことしか知らなかった家畜追いが、千戸長やアラク・ドンらの悪行や不誠実に接し、むこうみずに闘ううちに世の中を理解していく冒険活劇でもある。孤独なガンマンとなった主人公が黒づくめの出で立ちで荒野を馬で駆け回り、次々と敵をなぎ倒していく様は、さながら西部劇のよう。登場人物はそれぞれに複雑な性格を持つ人物として描かれており、読み応え十分。20世紀前半のアムド地方の歴史を踏まえており、ラブランの僧兵の実態など、当時の世相をよく映し出した中編小説。

月の話(海老原志穂訳)
人間の奢りによる環境破壊をテーマとしたSF的な小品。

世の習い(大川謙作訳)
牧畜民の淡々と繰り返される日常を一生になぞらえて描く。原題は「公式」。タクブンジャの「一日のまぼろし」(『ハバ犬を育てる話』所収)と同じアイディアの作品で、比べて読むと興味深い。

ラロ(11章まで共訳、12章以降三浦順子訳)
「ラロ」雑誌掲載時の挿画
社会の急激な変化についていけない牧畜民の滑稽で悲哀に満ちた姿を愛すべきダメ男、ラロに託してリアルに描き出す。当初11章で完結した作品として雑誌に発表されたが、12章の冒頭にあるように、『ダンチャル』編集部からのたっての要望で続きを書いたといういわくつきの中編小説。本文に触れられている通り、実は前編が雑誌に掲載された翌年に、著者は濡れ衣を着せられて塀の中でしばらく過ごした経験があり、獄中の様子はその時の参与観察にもとづくものである。とりわけ獄中で虱と格闘する描写にはカフカの「変身」にも似た鬼気迫るものがある。三浦順子氏による「虱から見たチベット現代文学」(『チベット文学と映画制作の現在 SERNYA』第4号所収、本ウェブサイトにも転載)を併せてお読みいただきたい。本作品以降、歴史を作品の中に取り入れる傾向のほか、時間軸を交錯させて現実と妄想をないまぜにして物語を展開させる傾向が強まっていく(それは後の長編小説において見事に結実している)。第3回ダンチャル文学賞受賞。

復讐(星泉訳)
父親を殺した相手に復讐するためについに立ち上がった若者の一日から、復讐が連鎖していくさまを浮かび上がらせていく。短いながらも迫力のある作品。

兄弟(星泉訳)
結婚を機に兄弟関係が壊れていく悲劇を描く。次の「美僧」とともに草地争いの実態が描きこまれている。

美僧(海老原志穂訳)
心中の葛藤に対処しきれず、酒と女に溺れて破滅寸前となった美貌の僧の妄想と現実、そして驚くべき顛末を描く。著者が人間の複雑で分裂気味の心理を描く転機となった作品。第5回ダンチャル文学賞受賞。

一回の真言(共訳)
義兄弟の契りを結んだ男同士の冥土での再会の様子と閻魔大王の裁定の妙をユーモアたっぷりに描く。

D村騒動記(共訳)
文化大革命で徹底的に破壊された僧院が、1979年の改革開放以後、再建される。その宗教復興、僧院再建の時代に陰で搾取されて苦しんだ一般民衆の姿を描く。1990年には自身の翻訳による漢語版が雑誌『青海湖』に発表された。

河曲馬(星泉訳)
競馬を題材に、牧畜民らしく生きるとはどういうことかを追究した作品。世代による考え方の違いを浮き彫りにしているのも特徴。キャリアウーマンが活躍する数少ない小説の一つであり、そこには都会で高等教育を受けた若者の悲哀も織り込まれている。本作品は同名のテレビ映画のために書き下ろした脚本を自身で小説化したもので、漢語版がラサの老舗漢語文芸誌『西蔵文学』に掲載された後、2014年に著者自身の翻訳によるチベット語版が『チベット文芸』に掲載された。邦訳には両方の版を参照した。

鼻輪(星泉訳)
ギャンブル依存症に陥った青年が更生するきっかけとなった出来事を描く。いざという時には必ず助け合うチベットの人びとの姿も印象深い。

親の介護をした最後の人(海老原志穂訳)
グローバル化の進んだ社会の現実と、仏教にもとづくチベット式の考え方の齟齬を皮肉たっぷりに描く。

あるエイズ・ボランティアの手記(大川謙作訳)
エイズがひろまりつつあるチベット社会に警鐘を鳴らすため、病院関係者に綿密な取材をして書き上げた作品。朗読版がインターネット上で公開されている。

ブムキャプ(三浦順子訳)
政治腐敗をコミカルに描いた作品。チベット語と漢語を混ぜた役人たちの会話が極めてリアルである。冒頭に、著者の敬愛する作家ゴーゴリによる戯曲「検察官」のエピグラフと同じことわざを引用してオマージュを捧げている。

黒狐の谷(共訳)
生態移民政策により移民村に移住した人びとの厳しい現実と彼らを襲った悲劇をつぶさに描いた衝撃の記録文学的作品。2014年には北京の文芸誌『民族文学』(チベット語版)にも掲載された。刊行されてすぐに話題になり、英語、フランス語、ドイツ語、中国語、モンゴル語などにも翻訳されている。第23回東麗杯全国梁斌小説賞において短編小説部門最優秀賞。


訳者紹介
◎海老原志穂(えびはら しほ)
東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所ジュニア・フェロー。専門はチベット語の方言研究、チベット現代文学。近年の著作に『アムド・チベット語の発音と会話』(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所 2010)、「ヤクの名は。」(『FIELDPLUS』17号 2017)などがある。

◎大川謙作(おおかわ けんさく)
日本大学文理学部准教授。専門はチベット社会史、チベット現代政治、社会人類学。近年の著作に A Study on Nang zan: On the Reality of the "Servant Worker" in Traditional Tibetan Society (Revue d'Etudes Tibétaines, vol. 37, 2016) や「包摂の語りとその新展開—チベットをめぐる国民統合の諸問題」(『史潮』第79号 2016)などがある。

◎星泉(ほし いずみ)
東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所教授。専門はチベット語、チベット文学。著書に『古典チベット語文法:『王統明鏡史』(14世紀)に基づいて』(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所 2016)、訳書にラシャムジャ『チベット文学の新世代 雪を待つ』(勉誠出版 2015)などがある。

◎三浦順子(みうら じゅんこ)
チベット関連の翻訳家。主な訳書にリンチェン・ドルマ・タリン『チベットの娘』(中央公論新社 2003)、ダライ・ラマ14世テンジン・ギャツォ『ダライ・ラマ 宗教を語る』(春秋社 2011)、『ダライ・ラマ 宗教を超えて』(サンガ 2012)などがある。

訳者の4名はチベット文学研究会を結成し、2004年頃からチベット現代文学を翻訳・紹介する活動を行っている。共訳書にトンドゥプジャ『チベット文学の曙 ここにも激しく躍動する生きた心臓がある』(勉誠出版 2012)、ペマ・ツェテン『チベット文学の現在 ティメー・クンデンを探して』(勉誠出版 2013)、タクブンジャ『ハバ犬を育てる話』(東京外国語大学出版会 2015)がある。2013年より年1冊のペースで『チベット文学と映画制作の現在 SERNYA』を刊行中。

※本書は東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所 (AA研) で実施されているプロジェクト「多言語・多文化共生に向けた循環型の言語研究体制の構築」(LingDy3) の成果の一部としてAA研から刊行された後、勉誠出版より一般向けに刊行される予定です。