2020年9月15日火曜日

20世紀チベットを描く長編歴史小説『白い鶴よ、翼を貸しておくれ』

 2020年10月、ツェワン・イシェ・ペンバ (
Tsewang Yishey Pemba) の長編小説 White Crane, Lend Me Your Wings: A Tibetan Tale of Love and War の邦訳『白い鶴よ、翼を貸しておくれ チベットの愛と戦いの物語』(星泉訳)が書肆侃侃房より刊行されます。 

 この作品は、20世紀前半の東チベット、ニャロンのとある谷を舞台に、果敢にもキリスト教の伝道にやってきた若きアメリカ人宣教師夫妻とチベットの人びとの出会いと交流、そしてやがて訪れる悲劇と抵抗の戦いを描いた傑作歴史小説です。

 作品の背景や著者について知っていただくために、SERNYA vol. 6 に掲載された同名の記事を公開します。(編集部)

 

英語チベット文学への誘い

   ツェワン・イシェ・ペンバと長編小説

星 泉

チベット現代文学の中の長編小説

 チベット文学に日常的に触れるようになってからというもの、機会があればチベット語の長編小説を読むようにしてきた。ぐいぐい読ませるような長編の物語に巻き込まれるのが個人的に好きなのだ。しかし、チベット語で長編を読むというのは正直ハードルが高く(想像しにくいかもしれないが、チベット語の現代小説には辞書に載っていない単語が多くてたやすく心が折れる!)、誰かに勧められでもしない限り、面白いかどうかもわからない長編に手を出す気にはなかなかなれない。
 そんな筆者にとって、フランスのチベット現代文学研究者フランソワーズ・ロバンがチベットの長編小説を俯瞰で捉えて整理し、歴史的背景も含めて解説した記事(注1)はありがたいものだった。ロバンは、チベット語で書かれた長編小説は他のアジア諸地域と比べてかなり少ないが、それはチベットでは古くから仏教を基盤とした物語が民衆文化の隅々に至るまで浸透していたためであろうと分析していた。
 どうやらチベットでは長編小説はこれから発展していく分野らしい。そこで個人的な関心から、2010年代に出た長編小説も含めて調査することにした。ロバンが取り上げていなかった観点として、出版点数や刷り部数の変化や作家の出身地や男女比、出版地の別などを調査してみた。また、ロバンはチベット語で書かれた長編小説のみを対象にしていたが、漢語で書かれたものも調査したところ、なかなか興味深い結果が得られた(注2)。 


 詳細は別稿に譲るが、そこで筆者が知り得たことは、現代的な意味での長編小説が書かれたのは漢語作品が先でジャンベー・ギャツォ(降辺嘉措)による『菊の花(格桑梅朶)』(1980年、人民文学出版社)である。

 その5年後、ランドゥン・ペンジョル(glang mdun dpal ’byor)による、チベット語で書かれた初の長編小説『トルコ石の頭飾り(gtsug g.yu)』(1985年、西蔵人民出版社)が刊行された。少年の成長物語を柱にラサの1930年代の世相を映し出したこの作品は、高尚なレトリックを知らない一般人でも読みやすく、また物語としての面白さも相俟って当時のラサでブームを巻き起こしたという。



 トンドゥプジャをチベット・アムド地方における現代文学隆盛のきっかけを作った東の雄とすれば、ラサで旗揚げした西の雄ともいえるランドゥン・ペンジョルについて語りたいことは多々あるが、本稿の主題からそれるので先に行こう。

英語で書かれたチベット文学

 そんなわけで、チベット現代文学における長編小説の歴史は1980年より前には遡れないと考えていた。ところが、である。思い込みは必ず覆される。
 2018年の5月、アメリカの東洋史研究者で、ペマ・ツェテン監督の映画に深い関心を寄せる呉淑錦氏が筆者を訪ねてきてくれた。お互いに近況報告をする流れの中、チベットの長編小説に関する筆者の調査について話したのだが、呉氏は筆者の提示するデータを面白がりながらも、こう言ったのだ。

「英語で書かれたチベット文学は入れないの? ジャムヤン・ノルブというチベット人作家が長編小説を書いているよね」

 そうなのだ。確かにジャムヤン・ノルブはシャーロック・ホームズのパスティーシュ小説を3冊書いており、うち1冊は日本語にも翻訳されている(注3)。チベット人による英語の創作活動は視野に入っていなかったわけではないが、今回の調査対象から外していたのは事実だ。
 この日の会話がきっかけとなって、チベット人が英語で書いた長編小説を調べ始めたのである。

ツェワン・イシェ・ペンバとの出会い

 

2017, Niyogi Books

 以前、英語のニュースサイトでチベット人作家による小説がまもなく刊行されるという記事を目にしたことがあった。確か、外科医である著者が書いた小説だったはず。「チベット人、医師、長編小説」というキーワードで記事を探してみたところ、ツェワン・イシェ・ペンバという医師であり作家による『白い鶴よ、翼を貸しておくれ』という長編小説の刊行に関する記事がすぐに出てきた。ダライ・ラマ6世による有名な「白い鶴よ 翼を貸しておくれ 私は遠くに行くのではない リタンを巡って戻るから」という詩を踏まえた、美しくもどこか悲しみを湛えたタイトルだ。ともかく読んでみようとネットストアで発注し、さらに記事を読み進めていくと気になる一節があった。


1966, Jonathan Cape
 著者は「チベット人として初めて」という称号をたくさん持つ人物であり、そのうちの一つが長編小説を初めて書いた人という称号だというのだ。しかも処女長編小説『道中の菩薩たち』の刊行はなんと1966年。出版地はロンドンである。【写真右】
 チベットで漢語やチベット語による長編小説が出るよりもはるかに前に、チベット人による小説が出版されていた。しかもチベットから遠く離れた地で。衝撃の事実だった。
 なぜそんなことが可能だったのだろうか。そもそも、いったいどんな人物なのだろうか。気になって仕方がなくなった。


ツェワン・イシェ・ペンバについて

 

1957, Jonathan Cape

 ここではツェワンの半生記を含むエッセイ集『少年時代のチベット』【写真左】と、『白い鶴よ、翼を貸しておくれ』の冒頭に収録されているシェリー・ボイル(Shelly Bhoil)による解説をもとに紐解いてみよう。
 ツェワン・イシェ・ペンバは1932年、チベットのギャンツェ生まれ。祖父は東チベット・カム地方マルカムの出身、ラバ隊を率いてチベットとインドを行き来する商人だったという。
 その息子であり、ツェワンの父であるペンバ・ツェリンは、親とともにダージリンで暮らした経験から、英語を話すことができ、当時チベットに拠点を置いていたイギリス通商代表部に雇用された(注4)

 ツェワンがギャンツェで生まれたのは父の当時の勤務地だったためである。その後、ブータン国境付近のトモ(亜東とも)に通商代表部の支部が設置されると父は転勤になり、一家でトモに移り住む。ツェワン少年は緑深く温暖なトモの地で幼少期を過ごすことになる。この地で話し上手の祖母と暮らし、たくさんのチベットの物語を語り聞かせてもらった経験が後の創作活動に大きな影響を与えることになる。その後、父はラサに転勤になり、一家で移住し、ツェワンが9歳になるまで過ごす。
 仕事柄、刻々と移りゆく世界情勢を耳にしていた父は我が子に英語教育を施すべきだと考え、1941年、ツェワンをダージリン近くのクセオンにあるビクトリア・ボーイズ・スクールに入学させる。同級生はみなイギリス人で英語には相当苦労したが、ツェワンは生来の賢さで乗り越える。そして1949年、17歳のときに医学をこころざし、故郷を離れ、ロンドン大学に単身留学する。

ツェワン・イシェ・ペンバ

 父から時折届く手紙で、共産党のもとで大きな変化を蒙りつつあるチベットの情勢について知る一方、ロンドンではチベットに対して人々が抱く思い込みや幻想に日々直面して嫌気がさしていた。幻影ではなく、リアルなチベットを知ってほしい。ツェワンのその願いは、後にエッセイ集『少年時代のチベット』として結実することになる。
 ツェワンは1955年に大学を卒業したが、前年、ギャンツェのヤルルン・ツァンポ川流域で起きた大洪水で両親が非業の死を遂げていた。そして当時すでにチベットは事実上、独立を失っており、ツェワンの帰るところはなかった。そんな折、後にブータンの首相となるジグメ・ドルジの依頼を受け、ブータンで初めての西洋医学の病院を建て、自身も医師として働いた。その後、1959年にブータン人の妻ツェリン・サンモとともにダージリンに移住し、当地の病院に勤務する。この年の3月にチベット蜂起が起こり、国境を越えてきたチベット人がインド側に押し寄せてきた。ツェワンは負傷した人々や病気の人々に無償で治療を施し続けたという。そのとき命からがら逃げてきた人々から聞いた話はツェワンの心に深い印象を残し、チベットに起きている悲劇的な状況について、いつか書かねばという思いが強くなっていった。
 その後再び医学の研究を進めるためにロンドンに渡った際に書き上げて1966年に出版したのが、自伝的な要素を含む長編小説の『道中の菩薩たち』である。20世紀初頭のヤングハズバンドのチベット遠征の最前線に立たされたトモや、イギリス通商代表部のあるラサ、そしてインドのダージリンなどを舞台にした、ある一家の激動の数十年間の歴史を描いた小説であり、また主人公が少年から大人へと成長していくさまを生き生きと描いた青春小説でもある。この作品を読んだイギリスの、英語圏の読者たちはどんな印象を受けたのだろうか。
 1967年にロンドンから帰国し、ダージリン、ティンプーで長い間、医師として病院に勤務したツェワンは、2007年、念願のチベット訪問を実現させる。1949年にチベットを離れて以来、初めての訪問であった。ツェワンはチベットの変化に相当なショックを受けたようで、何ヶ月もの間、物思いに沈んでいたという。その後、『白い鶴よ、翼を貸しておくれ』の執筆に着手し、東チベット、カム地方ニャロンを舞台に、当地に初めて入った若いアメリカ人キリスト教宣教師一家の物語を一つの柱として、山に抱かれた穏やかな暮らしを営んでいたチベットの人々が故郷を追いやられ、何もかもが崩れ去っていく悲劇の物語を交錯させた大河歴史小説を書き上げた。晩年、肝臓がんを患っていたツェワンは、痛みに耐えながら執筆を続けて完成させ、2011年に亡くなった。ツェワンの悲願だった『白い鶴よ、翼を貸しておくれ』の出版は、没後6年経った2017年に、遺族たちの手によって実現したのである。


二つの文化のはざまで

 チベット人というアイデンティティを持ちながら、イギリスの学校文化の中で青春時代を送り、その後の人生でも二つの文化の間で長い間葛藤してきたツェワンは、仏教とキリスト教について思索を繰り広げていたようである。その思索の跡は『道中の菩薩たち』にも『白い鶴よ、翼を貸しておくれ』にも見られる。さらに、二つの文化の間を往来した作家として、文化の橋渡しとなるような表現を多用している。英語圏の読者を想定した表現として、ラテン語を引いたり、キリスト教と仏教を対比させたり、イギリスやフランスの古典文学などから引用するなど、異文化理解を助ける細やかな描写が特徴である。その一方で、地の文、会話文にかかわらずチベット語を多用し、チベットらしさを伝えている。この絶妙なバランス感覚はどのように培われたのだろうか。インドのクセオンの学校で学んでいた少年時代の経験と大いに関係があるだろう。学校でヨーロッパの古典に親しみ、科学的知識を学んだツェワン少年は、長い休みのたびにトモに住む敬虔な仏教徒の祖母のもとに帰り、祖母に学校で学んだ知識をぶつけては激論を交わしたという。祖母の確固たるチベットの伝統的な世界観に対抗するには生半可な知識ではかなわず、祖母にはずいぶん鍛えられたと振り返っている。

ツェワン・イシェ・ペンバ作品の価値

 『白い鶴よ、翼を貸しておくれ』はスリリングなストーリー展開と折々に挟まれるユーモアとで読者を大いに楽しませてくれる作品だ。ツェワンのこの文学的才能は、祖母ゆずりの語り好きであるということと、クセオン時代以降、英語を通じてヨーロッパの様々な文学に親しんだ経験が見事に混ざり合って開花したものであろう。そして著者が行ったこともないはずのニャロンの地で起きた過去の物語を鮮やかに蘇らせるリアルな描写は、著者が1959年以降、長期間にわたり、ダージリンで難民の医療活動に従事しながら耳を傾け続けた貴重な体験に支えられている。ツェワン・イシェ・ペンバの軌跡と、この大河歴史小説の誕生の貴重さを思うと瞠目せざるを得ない。

脚注

(1) Françoise Robin. “Tibetan Novels: Still a Novelty: A Brief Survey of Tibetan Novels Since 1985”, Latse Library Newsletter, vol. 6, pp. 26―45, 2009―2010.
(2) 筆者による口頭発表「長編小説の出版状況から読み解くチベット文学の現在」第64回日本チベット学会大会ワークショップ「チベット学研究のホットスポット」、2016年11月19日、身延山大学。
(3) ジャムヤン・ノルブ著、東山あかね、熊谷彰ほか訳『シャーロック・ホームズの失われた冒険』河出書房新社、2004年。
(4) Tibet and British Raj (Alex McKay, London: Curzon Press, 1997) にも父ペンバ・ツェリンに関する記述が見られる。

付記

本稿は第6回チベット学情報交換会(2018年11月16日、駒澤大学)で口頭発表した内容をもとに執筆したものである。
 
※この記事はSERNYA vol. 6に掲載された同名の記事をほぼそのまま掲載しています。写真は一部割愛し、書影を一部追加しました。(2020年9月12日記

2020年3月29日日曜日

三枚の写真から

文・写真提供 ペマ・ツェテン(映画監督、小説家)

翻訳 大川謙作

 

1.靴と自転車:小学校時代

 


これは私が生まれてから最初に撮った写真である。おそらく11歳か12歳の頃のものだろう。

当時、写真を撮るということは簡単なことではなく、かなり贅沢な行為であった。毎年、眼鏡をかけた中年の漢人がカメラを首にぶら下げて村のなかを回ってきて、記念写真を撮らないかとみなに売り込みをしていたことを覚えている。その頃はみな金がなかったので、このカメラマンがやって来ると隠れてなんとか見つからないようにしたものだ。というのは、撮影には金がかかるということをわからない子供たちが写真を撮ってほしいと騒ぎ出してしまえば恥ずかしいことになると思ったからだ。

私がこの写真を撮ってもらうことができたのは、祖父のおかげだろうと思っている。祖父は私のことを彼の母方のおじの生まれ変わりだと固く信じていた。その母方のおじというのはニンマ派の僧で、たくさんの経典を持っており、学識のある人物であったようだ。祖父は、自分が多少は経文を唱えることができ、ニンマ派の儀礼についてもある程度まで通じているのはこのおじのおかげなのだと言っていた。どうも私は幼い頃にこの祖父のおじについて何かを口にしたらしく、そのために祖父は私を彼の転生者とみなしていたのだ。

その頃、祖父は我が家の全権を掌握しており、家に関するすべてのことは彼が決めていた。だから私がこの写真を撮ることができたのもきっと祖父の私に対する偏愛の故なのだろうと思っている。写真で私が着ているのは、本来なら正月のときにだけ着ることができる服である。特にこの靴は貴重なもので、私はずいぶん長いことこの靴を履き続けていたものだ。

初めてこの靴を履いたとき、大きすぎてつっかけながらでしか歩くことができなかった。そんな風に履けばすぐに擦り切れてしまうから、中にたくさん詰め物をして無理やり履いたことをよく覚えている。成長するにつれ、徐々に靴のサイズがぴったりになり、履きやすくなっていった。ひどく破れてもう履けなくなってしまっても、まだこの靴を捨てたくなかった。被っている綿の帽子も同じで、私は幾度もの寒い冬をこの帽子とともに過ごしたのだ。

撮影の快楽は実際には一瞬のことで、カシャッという音とともにすぐに終わってしまう。それでもそれはやはり魅力的なことで、カメラの前に立っているとどうしても立ち去り難く、誰かに無理やり引っ張っていかれるまで立ち尽くしていたものだ。撮影の後は長い間待たないといけない。出来上がった写真が古新聞に包まれて家に届くまで、当時はだいたい3ヶ月くらいはかかった。届いた写真は客間の壁の目立つところに掛けられ、すっかり黄ばんでしまうまでそこに飾られていた。

写真の背景は我が家の敷地内にあった木造の小屋だ。私はここで多くの時間を過ごしたのでたくさんのいい思い出がある。でも残念なことに、後に煉瓦造りの家に建てかえるためにこの部屋は壊してしまった。

後ろに見える自転車は確か飛鴿ブランド【訳注:中国の有名な自転車メーカー】のもので、当時の我が家にあった最も高価なものだろう。あるとき、私は親がいないのをいいことにこの自転車を村の脱穀場まで持ち出して乗ってみようとしたのだけど、無残に転んで顔面を強打してしまい、目の周りが腫れて何日も痛みがとれなかった。

この写真は小学校3年生の頃のものだ。当時の学校の教室というのはぼろぼろで、またそもそも学校に教室がそんなにたくさんはなかった。そこである年の夏などは僧院の2階の平らになっている屋上で授業を行ったりしていたのだが、授業を聞きながら外の景色を眺めるのはなかなか気持ちのいいことだった。またある夏には地方を回る映画隊がやってきて、僧院のお堂で『私たちの村の若者』【訳注:1959年公開の中国映画。蘇里監督の作品】という映画を放映してくれた。上下2編に分かれているとても長い恋愛映画だ。当時は恋愛というものが分かっていたわけではなかったけど、それでもその映画は私をたくさんの甘い夢想にひたらせてくれた。私はその後も何度もこの映画のことを思い出した。

写真を撮ってから2年ほど後、私は小学校を卒業して村を離れ、県庁のある街の中学に進学した。こうして私は初めて家を離れることになった。その頃にはもう自転車に乗れるようになっていたので、この自転車も私がもらうことになった。



2.スーツとテレサ・テン:師範学校時代



2枚目の写真は、中学を卒業して州の師範学校に進学し、そこもそろそろ卒業しようかという頃に撮られたものだと思う。この頃でもやはり写真を撮るということは今ほどに簡単で当たり前のことではなく、たまに親しい友人とともに記念写真を撮るために写真館にわざわざ出かけていくというようなものだった。

左の人物は1学年後輩の親しい友人だ。彼は現在では人民警察に勤務している。今でも連絡があって、帰省するたびに会っているし、身分証のことなどで相談をするような仲だ。

この時、どういった事情で写真を撮りに行ったのかはよく覚えていない。おそらくはスーツを新調したからだろう。この頃に流行したパナマという生地のスーツなのだけど、何故この生地がそんな名前なのかはよくわからない。既製品のスーツを買う余裕はなかったので、みな生地を裁縫店に持って行ってあつらえてもらっていた。私が着ているのもそのようにしてあつらえたものだ。写真を見ると私はネクタイも締めているけど、これはきっと写真館で借りたものだろう。

その頃のチベットでは新しい流行りものが好まれていて、私がこんな風にスーツを着ているのも当時のそういう新しもの好きの潮流を表しているといえよう。例えば音楽でも新しいジャンルのものが好まれていた。私はカセットデッキを持っていたのだけど、それはレンガくらいの大きさだったので「レンガ」と呼ばれていた。贅沢品と考えられていたものだが、これもまた祖父が買ってくれたのだ。

曲の入ったテープを買うことができなかったので空のテープを購入してお店に行き、曲をダビングしてもらっていた。料金はテープ一本につき一元だった。テレサ・テンの歌謡曲が流行りだしていた頃のことで、学校の教師はそれを「みだらな音楽だ」と言っていたけど、私には「みだら」という意味がよくわからず、とにかくいい曲だなと思っていた。

その頃、県庁の街には映画館があって映画を放映していた。学校が按配して『人生』【訳注:1984年公開の中国映画。呉天明監督の作品】という映画をみに行かせてくれたことがある。映画に登場する宋巧珍というのは美しい娘だなと思ったことを覚えている。

師範学校の専科を卒業した後、私はふるさとに戻って小学校の教師になった。初めて給料をもらったときのことはまだ覚えている。金額は99元で、当時は「あと1元で100元になるな、結構な金額じゃないか」と思ったのだ。私はその金を持って県庁のある街に出かけて何冊かの本を買い込み、また祖父へのプレゼントも購入した。人民文学出版社の『紅楼夢』もその時買った本なのだが、とても凝った装丁だった。『紅楼夢』を読破したのはこのときのことで、私はこの物語にすっかり魅了され、心を奪われた。素晴らしい小説だと思った。ぼろぼろになってしまっているけど、この本は今もまだ手元にある。

当時の小学校の教師というものは何でもかんでも教えなくてはならなかった。漢語、チベット語、数学、思想と道徳、音楽などすべてだ。生徒たちはみな可愛らしかった。生徒たちの生活や学習環境は自分が小学生だった頃よりは随分とましになっていた。
 
そうやって3年ほど小学校の教師を務めた後、私は自分の環境を変えてみようと思った。そのための唯一の方法は、大学に行くことだった。働いていた小学校に配属されたとき、私は、6年間は職場を離れてはいけないという契約を教育庁とのあいだで結んでいた。そのため、大学を受けることを申請したときには、もしも不合格の場合は公務員の職には復帰できないので、そのことについても誓約書をしたためることになった。これは当時かなりセンセーショナルなことで、みなから、もう少し後先を考えろ、軽率にすぎるぞと言われたものだ。当時、「鉄の茶碗」【訳注:公務員の安定した身分を形容する表現】を手にすることは容易なことではなかったし、ちゃんとした仕事があれば一生安泰だとみなが考えていたのだ。

こうして私は西北民族大学に進学し、チベット語と文学を専攻することになった。甘粛省の蘭州にある美しいキャンパスの大学で、ソ連の建築技師が設計した建物もあって異彩を放っていた。


3.レザージャケットのこと:大学時代




3枚目の写真は大学に進学して初めての冬に撮ったものだ。大雪の降る、とても寒い日のことだ。後ろに写っているのは大学の講堂だ。当時、大学では週末になるといつも映画を上映しており、私はこの講堂でたくさんの映画をみることができた。入学式と卒業式もこの講堂で行われた。

一緒に写っているのは私とおなじ州【訳注:青海省海南チベット族自治州】から来たクラスメートだ。クラスの中では私たち二人だけがこの州の出身だったので、自然と親しくなったのだ。その頃の学生の気風というのは意気軒昂としたものであり、そしてみなが文学を愛していた。大学に入って最初の学期、私は処女作となる「人間と犬」を『チベット文学』という文芸誌に発表した【訳注:同作品には邦訳がある。ペマ・ツェテン『ティメー・クンデンを探して』(勉誠出版、2013年)所収】。クラスメートたちは大いに驚き、私もある種の達成感を覚えたものだ。写真のクラスメートは詩作を好み、また酒好きでもあってときどき喧嘩もするような激情型の男だ。後に彼は長編詩を書きあげてとある女性に捧げ、周りの人を感動させていた。今では彼はもう詩を書くこともなくなり、実業の道に進んで社長になっている。

写真の私が着ているのは空軍払い下げのレザージャケットで、当時大流行したものだ。このジャケットはいとこからもらった。いとこはふるさとの歌舞団の歌手で、バリトンを担当していた。みなが羨ましく思うような美声の持ち主だった。服をたくさん持っていて、このジャケットも彼が2、3年ほど着たものだが、大学の入学祝いとして私に譲ってくれたのだ。私はそれを自分のサイズにあわせて仕立てなおして、その後学生時代に2年ほど着た。2年後、クラスメートがこのジャケットに惚れ込んだので、私も彼に譲ることにした。彼も、そのさらに2年後の卒業のときまでこの服を着つづけていた。

『タルロ』を撮影したとき、私はこのジャケットのことを思い出した。主人公のタルロに同じようなジャケットを着せたいと思ってあちこち手を尽くして探し、ジャケットを譲ったクラスメートにも問い合わせてみたのだが、彼もまたそのジャケットはふるさとの人に譲ってしまったということだ。そこでその人にも訊ねてみたところ、すでに破けてしまい、どこにあるのかわからなくなっているとのことだった。その後、私は別のところから似たようなレザージャケットを探し出してきて試しにタルロに着せてみたのだが、どうにもイメージと合わず、このアイディアはお蔵入りということになった。

過ぎ去った思い出の多くは知らず知らずのうちに私たちの記憶から消え去っていく。そんななか、わずかに遺された何枚かの古びた写真のおかげで、私たちの美しい記憶の一部がわずかなりとも留められることになったのは幸いである。


訳者後記

本稿は万玛才旦「三张照片和我的青少年时代」(『光明日報』2016年12月9日号)の全訳である。三枚の写真すべてのエピソードに映画(故郷の僧院での野外放映、県庁の街の映画館、大学の講堂での映画放映)と文学(ニンマ派の経典、『紅楼夢』、友人の恋愛詩)が登場するところがいかにもペマ氏らしい。なおペマ氏が監督を務めて第20回東京フィルメックス国際映画祭(2019年)で最優秀作品賞を受賞した映画『気球』のペマ氏本人による原作小説「風船」の翻訳が『すばる』(集英社)2020年3月号に掲載されているので、ご興味がおありの方はぜひご覧いただきたい。

2020年2月25日火曜日

SERNYAのお申し込みについて

『チベット文学と映画制作の現在 SERNYA』に関心をもっていただき、ありがとうございます。現在、申込み方法を変更のため、受付を停止中です。正式なお知らせまでしばらくお待ち下さい。(2020年2月25日)


2020年1月25日土曜日

家族三人の繊細な心のゆれを見事に描き出した映画『巡礼の約束』

『巡礼の約束』日本公開版ポスター(提供:ムヴィオラ)

 ソンタルジャ監督と著名な歌手ヨンジョンジャ氏の初タッグによる映画『巡礼の約束』が2020年2月8日(土)から、岩波ホールを皮切りに、順次全国ロードショーが始まります。(『巡礼の約束』公式サイト 

 2019年12月にこのお二人が来日した機会に、『SERNYA』編集部として気になること、ヨンジョンジャ氏が故郷であるギャロンを舞台とした映画を製作したいと思ったわけ、ソンタルジャ監督に依頼することになったいきさつ、チベットとギャロンの言語をめぐる話から映画の登場人物の話、そして次回作についてなど、さまざまなお話ををうかがいました。 (◆『SERNYA編集部)


ソンタルジャ(松太加)1973年生まれ。青海省出身。映画監督。ペマ・ツェテン監督とともにチベット映画の第一世代として世界的に注目を集めている。これまでの監督作品として、『陽に灼けた道』、『草原の河』。




ヨンジョンジャ(容中爾甲)1969年生まれ。四川省出身。歌手。2017年に発表したアルバム『天唱・ツァンヤンギャムツォ』で第28回台湾伝芸金曲賞「最優秀跨界音楽アルバム賞」、またアメリカのグローバル・ミュージック・アワードで銀賞を受賞。

 

❑ギャロンの地に暮らす人々の物語を知ってほしい

 

◆『巡礼の約束』はギャロンの文化や人々に焦点をあてた初めてのチベット映画ということで、とても画期的な映画だと感じました。チベットの中でも少し特異な文化を持つギャロンを背景に、迫りくる死を覚悟しつつ過酷な巡礼にのぞむ妻、うろたえながら愛情深くそれを支える夫、親から見捨てられた思いにさいなまれて荒れる息子、この3人の繊細な心のゆれを見事に描き出した作品ですね。

 
 『巡礼の約束』予告編


◆この映画の企画はもともと主役を務めたヨンジョンジャさんから持ち込まれたものと聞いております。ヨンジョンジャさんがこの映画を企画をされた理由をまずはお聞かせください。

(ヨンジョンジャ)
 チベットでもアムド地方やカム地方についてはある程度知られてますが、私の故郷のギャロンがどういう場所なのか、知っている人はあまりいないでしょう。ですから、まずは映画を通じてギャロンという古い文化をもったチベットの重要な地域について知ってほしいと考えました。ギャロンの文化を織り交ぜて物語を描くことで、そこに住むいきいきとした人々の心、感情を表現したかったのです。

 また、巡礼をテーマにしたのは、ギャロンからは毎年ラサに巡礼に行く人が大勢いるからです。その手段は、五体投地、徒歩、車といろいろです。私の知人は五体投地で2回、ラサまで巡礼しました。私の小学校の先生も故郷トゥジェチェンボからラサまで五体投地で巡礼をしています。先生は病気で中断したり、臨時の仕事についてお金を稼いだりしながら3年間の歳月をかけて巡礼をしたのです。

 このような物語は歌や舞踊ではなく、映画という媒体をとるのがもっとも最も適していると思いましたので、ソンタルジャ監督にお願いした次第です。監督に感謝しております。監督と一緒にギャロンをめぐることができたのは貴重な機会でした。

(ソンタルジャ)
 チベットは広大な地域ですが、これを言語でわけると四つのエリアにわけることができます。ウー・ツァン、カム、アムドの三つの地域それぞれの方言があり、他にギャロンを加えると四大方言エリアとなります。

 私自身もギャロン地域に足を踏みいれたのは初めてのことで、撮影のためにあちこち歩いて回ったため、自身でも新たな体験を得ることができましたし、感激することも多々ありました。

 特に驚いたのは、ギャロンの言葉には多くの古代チベット語の単語が含まれており、かつ古い儀式が残されていたということです。


❑「きみが撮りたいように手を加えていいよ」背中を押してくれたタシダワ氏の一言

 

「巡礼の約束」の製作費はすべてヨンジョンジャさんの会社が出されたとそうですね。またヨンジョンジャさんは当初、映画の脚本を有名な小説家のタシダワ(ザシダワ)さんに依頼され、それをソンタルジャ監督のもとにもっていって監督を依頼したと。でもソンタルジャ監督がそのシナリオを徹底的に書き直されたと聞きました。

(ヨンジョンジャ)
 タシダワさんの脚本では9割が私自身の物語からなっており、残りの1割をタシダワさんが付け加えられました。しかし、ソンタルジャ監督が書き直した脚本は9割が監督の手になるものです。

(ソンタルジャ)
 ヨンジョンジャさんは私の監督作品「草原の河」を気に入って私に監督を頼みにきました。お会いしたのはそれが初めてでした。とはいえ、タシダワさんのもともとの脚本は漢人の女性とチベット人の男性のありきたりの巡礼恋愛物語でしたので、脚本を書き直させてもらうことにしました。

 タシダワさんからは脚本に手をいれてもいいと言われていたのですが、子供のころから尊敬してきた作家の仕事をむげにするのも失礼な話だとためらいがありました。そこでラサにいるタシダワさんのもとに行って、酒を酌み交わし、最終的には「きみが撮りたいように手を加えてもいい」と言ってもらえたのです。それで、やっと私も安心できました。彼は60歳で、私よりずっと年上です。私は子供の頃からの彼の小説の愛読者であり、私にとっては先生のような存在ですから、しかるべき敬意を払う必要があったのです。


❑スターのオーラを消しておろおろする夫の役を演じてもらいました

 

ヨンジョンジャさんはこの映画で夫のロルジェ役を演じていますが、他の人を主役にするプランもあったのですか?

(ソンタルジャ)
 いえいえ、脚本を書きながらキャスティングも考えたのですが、彼に是非主役を演じてほしいと思っていました。ヨンジョンジャさんは最初は出演を固辞していましたが、私が説得をして、髪もばっさり切ってもらい、有名な歌手というオーラも見事消して、おろおろする夫の役を演じてもらいました。ご当人もこの作品をすごく気に入ってくださっているようです。

◆ヨンジョンジャさん演じる夫ロルジェは巡礼に出る妻を快く送り出しますが、妻亡きあと、この巡礼が前夫の遺骨を聖地ラサに持っていくためのものであったことが発覚する。嫉妬しようにも、二人ともすでに亡くなっているわけです。妻の追善供養のために訪れた寺で、妻と前夫の写真をつい引き裂いてしまうという描写が、どうしようもない心の葛藤を示して実に秀逸でした。


(ソンタルジャ)
妻の追善供養をたのむ際、夫は妻が隠し持っていた妻と前夫が一緒に映っている写真をお坊さんに渡すのですが、その際、お坊さんが聞くわけです。

「どちらが亡くなったのですか」 

夫は答えます。「二人ともです」

すると事情を知らないお坊さんがこんな言葉をかけるのです。 

「二人とも亡くなったのならよかったですね。残されなくてお互いに苦悩しなくてすみますから」


◆この言葉を聞いた夫ロルジェのなんともいえない表情が忘れがたく、この映画のハイライトシーンのひとつだと思います。映画のパンフレットにも書かれてますが、写真を破るシーンを思いついた時、「やった!」と思われたそうですね。そして破られた写真が再びくっつけられて目の前に現れた時、夫ロルジェもこの映画を見ていた観客も初めて連れ子のノルウの心情が理解できる。

 ロルジェをはじめ、『陽に灼けた道』でも『草原の河』でも、あなたの映画は、葛藤をかかえた弱気な男性を描くことが多いですね。それは何故ですか?



(ソンタルジャ)
そのほうが現実を映しているからです。

❑向こうから見返してくる子が目に止まり、この子がノルウだと即決でした


主役のお三方はどなたも見事な演技でしたが、特にノルウ役の子の演技は素晴らしく、親に捨てられたどうしようもない苦しみをよく表現していました。本当にいい子を選んだんですね。キャスティングが利いています。

(ソンタルジャ)
 撮影期間の関係で、ノルウ役の子はギャロンではなくアムドで探すことになりました。二千人の候補者の中から彼を選んだんですよ。

 候補になった子供たちはどれも『草原の河』の主役のヤンチェン・ラモみたいなかわいい子ばかりで、いまいち気に入らなかったのです。自分が望んでいるのはこういうタイプの子ではないと言ってもうまく通じず、その場を立ち去ろうとしたとき、向こうから見返してくる子が目にはいりました。そして彼こそ私が望むノルウだったのです。演技テストぬきで即決で決めたのです。彼は私の次の作品『ラモとカベ』にも出演しています。

 映画では親の愛情に飢え、怒りをかかえた男の子として描かれているので、実生活でもそうではないかと思い込む人もいるのですが、親の愛情をたっぷり受けている子です。

◆ノルウ役の子は演技経験がないわけですが、監督が演技指導をしたのですか? アムド語とギャロン語はちがいますが、わざわざギャロン語を勉強したのでしょうか?

(ソンタルジャ)
 現場で実際に撮影する時には、こういう目つきをしろ、こう言いなさいという指示を出しましたが、性格などについては説明はしていません。彼は演技を知りませんから。また事前に何か伝えるようなこともしていません。素人が事前に演技の練習をすると、かえって演技を損ねてしまうからです。ギャロン語については、彼自身はほとんど台詞がありませんからね。目で演技をするんです。

 妻役のニマソンソン、夫役のヨンジョンジャもまったく事前準備はしていません。練習してくるような演技を私は求めていません。また、ヨンジョンジャとニマソンソン以外には脚本も渡していません。私は自然な演技がほしいのであって、つくられた演技は求めていないのです。

 『草原の河』でも、グル・ツェテン、ヤンチェン・ラモは演技においては素人です。三人とも、映画撮影終了後、上海で上映された『草原の河』を見て、初めてどういう映画だったのか理解できたと言ってました。撮影するときには、物語の順番どおりに撮影するわけでなく、午前と午後違うシーンを撮ったりするわけですから何がなんだか分かりませんよね。


❑ロバとノルウはすっかり仲良しに

 
映画『巡礼の約束』より(©GARUDA FILM)

主役の3人以外に、仔ロバが出てきますね。準主役といってもいいほどのうまい味を出していました。あれは野良ロバという設定ですか?

(ソンタルジャ)
そうです。昔のチベット社会ではロバは乗物として重宝していたのですが、最近は車社会になったせいで、必要なくなったロバは捨てられるようになりました。

捨てられロバに捨て子。ノルウと同じ境遇ですね。

(ソンタルジャ)
 母親が亡くなったとき涙を流せなかったノルウですが、母ロバを亡くした仔ロバを目にした時にやっと涙を流すことができたのです。脚本ではもっと小さい仔ロバの予定でしたが、見つけられずあの大きさになりました。わざわざロバの担当係も雇ったんですよ。餌をあげ、車で移動させるためにね。スィチョクジャ(ノルウの子役の本名)は仔ロバとすっかり仲良しになってしまい、なんと撮影終了後、ロバを自分の家まで連れて帰ったんです。今は彼の故郷バルゾンで飼われています。

仔ロバに亡くなった妻ウォマの魂が宿っているという解釈をしてもよいでしょか?

(ソンタルジャ)
 チベット文化を理解する人はそう解釈するかもしれません。


❑ギャロンの髪飾りは西チベットからもたらされたものと言われています

 

妻のウォマが頭にのせている飾り布が気になったのですが、これはギャロン特有のものでしょうか?

(ヨンジョンジャ)
 ギャロンの女性は16歳で成人式を行いますが、その時にチベット人のような細かい三つ編みを編み、映画に出てくるような大人の女性用の布飾りを用意して身につけるのです。この飾り布には刺繍をほどこされ、広げるとテーブルクロスくらいの大きさがありますが、使う時は折りたたんで頭にのせます。日よけにもなります。

 この髪飾りについては、西南民族大学のツァンラ・ンガワン教授が、ギャロンの髪飾りは西チベットのンガリからもたらされたものだと指摘しています。ンガリは寒い地域なので、後ろにも長く垂らした形ですが、ギャロンは温暖な地域なので、だんだん後ろが短くなり、今の形になったと言われています。

ウォマが亡くなった時に、顔にこの飾り布をかけていますが、そういった使い方もあるのですか?

(ヨンジョンジャ)
 本来は白い布を顔にかけるものなのですが、巡礼の途中で適切な布がなかったので、代わりに使ったという設定です。


❑ギャロン語は谷ごとに言葉が異なり、いくつもの方言があります

 

これまでギャロンについて深く知る機会がなかったのですが、この映画をみて、チベットとギャロンという地域が別々なものでなく、深くつながっていることを感じました。そして、言葉も、ギャロン語の響きも、さきほどチベット語と共通した単語も結構あるという話をされていましたけれども、響きに関しても共通したものを感じられてすごくよかったなと思いました。

(ソンタルジャ)
 とくに言語を研究する人にとってもギャロン語というのは非常に重要な研究対象になると思います。たとえば、つづり字の前置字や母音記号、後置字はラサでは個別に発音に反映されないことが多いですが、ギャロン語では個別に反映された発音を保っています。

(ヨンジョンジャ)
 たとえば「四姑娘(山)」はギャロン語では、[ʂkəbla] (チベット語のつづり字ではsku bla)と発音します。

(ソンタルジャ)
 ギャロン語では各文字要素の発音が省略されずに全て発音されるのです。それに対してラサでは [ʂkə] ではなく [ku] のように省略して発音されるのです。
ヨンジョンジャさんは、ギャロンのトゥジェチェンボ寺の周辺(観音廟)のご出身、妻役のニマソンソンは四姑娘の出身だそうですが、お二人のギャロン語の発音には違いがありますか? 

(ソンタルジャ)
 ギャロン語は谷ごとにかなり方言が違うのです。最初にこの映画をとろうとした時、どの方言をギャロンの標準語とするか検討し、大学の先生とも相談したうえで、ソモ (so mang 梭磨) の言葉を標準語として設定することにしました。この先生に方言の指南役をお願いして、私のそばに座ってもらい、ヨンジョンジャやニマソンソンの言葉を標準ギャロン語に修正するという指導をしてもらいました。ちなみにギャロン出身で専門に演技を勉強したことがある女優はニマソンソンただひとりです。

ギャロンの人々はアムド・チベット語などのチベット語も話せるのですか。

(ソンタルジャ)
 いいえ、ギャロン語だけです。彼らがギャロン語を話し続けているのには理由があります。1949年に東チベット各地にチベット語を教える学校がつくられたのですが、ギャロン地域には建てられなかったのです。学校ができていれば、言葉も統一されていたでしょうね。


❑ギャロン文化のテーマパークをつくろうとしています


ヨンジョンジャさんは歌手活動の他、舞台や映画のプロデュースなどをされていますが、最近は主にどのような活動をされていますか?

(ヨンジョンジャ)
 最近では、ギャロンの四姑娘にギャロンの民俗村(テーマパーク)をつくろうという活動をおこなっています。その民族村にギャロンの文化色のある商店街やホテル、ギャロン特有の歌や踊りを楽しめる劇場や文化博物館、そして、この映画を専門に上映する映画館をつくるという計画です。この地域を訪れた人にギャロンの食べ物を食べ、ギャロンの建物を見学し、ギャロンの文化を体験してもらいたいのです。


❑次回作は結婚と離婚をテーマとした物語

 

ソンタルジャ監督の次回作について教えてください。

(ソンタルジャ)
 次回作はすでに撮り終えています。編集も終わり、あとは音楽をつけるだけという段階です。

 タイトルは『ラモとカベ』、ラモという女性とカベという男性がおりなす結婚と離婚をテーマとした物語です。そして、宗教や家庭のルールなども絡んできます。チベットの英雄叙事詩ケサル王物語のエピソードとも関係があります。

 ラモは女優としてケサル王物語に登場する有名な悪女アタク・ラモを演じつつ、実際の結婚生活の中ではよき妻であろうとします。現実世界と劇中の世界が混じり合い、一人の人間の中でふたつの女性が混じり合う、その相剋を描いた作品です。

 これはまた女性が結婚を通して、自分自身をみつけていくという物語でもあります。結婚のための結婚ではなく、自分の人生を選び取り、結婚するのです。

 一方、夫のカベは実は4年前に結婚証明書をとって正式に結婚していました。でもこれは、形式だけの結婚で、二人のあいだに愛情もありませでした。歳月がすぎて本当に好きな女性が現れたので、相手の女性に離婚証明書にサインをしてもらおうと探し出してみると、相手は尼さんになっていたのです。尼さんになっている人が離婚証明書にサインをできないでしょう。彼女がなぜ、尼さんになったのか、登場人物それぞれの背景の物語を描いています。

今回は俳優はどなたをキャスティングされましたか?

(ソンタルジャ)
 ソナム・ニマとデキです。

ペマ・ツェテンの映画『五色の矢』にも出演していた美男美女の二人ですね。二人とも出身はカムですよね。

(ソンタルジャ)
 カムです。またソナム・ニマはカム地方のタウ(道孚)の人です。タウにもまた独特の方言があります。私は吹き替えが好きではないので、この映画のために二人ともアムドのバルゾンに来てもらってアムド・チベット語の特訓を毎日受けて勉強してもらいました。とてもうまくなりました。だから吹き替えではありません。ソナム・ニマはアムド・チベット語の練習のしすぎで、ある日など、舌が痛いと言うほどでしたよ。

ありがとうございました。『巡礼の約束』につづいて次回作も日本で公開されますように!



『巡礼の約束』
2020年2月8日(土)より岩波ホールほか全国順次ロードショー

監督:ソンタルジャ|プロデューサー:ヨンジョンジャ(容中爾甲(
ロンジョンアルジャ))|脚本:タシダワ、ソンタルジャ|出演:ヨンジョンジャ(容中爾甲(ロンジョンアルジャ))、ニマソンソン、スィチョクジャ 2018年|中国語題:阿拉姜色|英語題:Ala Changso|中国映画|109分|シネマスコープ|5.1chサラウンド|字幕:松尾みゆき|字幕監修:三宅伸一郎|配給:ムヴィオラ




2019年3月18日月曜日

SERNYA 6号の申込受付を開始しました

チベットの「いま」を伝える雑誌『チベット文学と映画制作の現在 SERNYA』(セルニャ)  の6号が刊行されました(目次はこちら)。個人の方からの送付申し込みの受付を開始しましたので,下記をご確認のうえ,メールをお送りください。バックナンバーの配布も継続しております。創刊号の配布も再開しました。

2019年2月25日月曜日

国際シンポジウム「チベット文学と映画制作の現在」(再追記あり)


【御礼】おかげさまで90名以上の方々にお集まりいただき、盛会のうちに終えることができました。ご参加くださったみなさま、告知にご協力くださったみなさま、どうもありがとうございました。報告の一部はSERNYA次号に掲載予定です。ご期待ください。(2019年3月20日)

来る3月15日(金)〜17日(日)の3日間、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所(AA研)にて、国際シンポジウム「チベット文学と映画制作の現在」を開催します。チベットにおける文学と映画の現状について語り合う一般公開のシンポジウムですので、お誘い合わせの上、どうぞお気軽にお越しください。なお、ご参加くださった方にはもれなくSERNYA最新号(第6号)をプレゼントいたします。

【お詫び】3月16日に登壇予定だったラシャムジャ(拉先加)さんは都合により不参加となりました。楽しみにしてくださっていた皆さまには大変申し訳ございません。現在のところ開始時間は変更せず、プログラムを前倒しして実施する予定です。さらなる変更がある可能性もありますので、ご参加される前に本ページをご確認いただければ幸いです。(2019年3月9日)

日時:2019年3月15日〜17日

(15日は17:00から、16・17日は10:50から)
場所:東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所3階大会議室

使用言語:日本語・チベット語(日本語通訳あり)
主催:多言語・多文化共生に向けた循環型の言語研究体制の構築(LingDy3)
参加費:無料 
要申込お申込みページ(LingDy3サイトに移動します) 

(準備の都合上、できるだけ事前にお申し込みください。)


2019年2月7日木曜日

SERNYA vol. 6

みなさま、ご無沙汰しておりますがお元気ですか?
現在、『チベット文学と映画制作の現在 SERNYA』編集部では、vol. 6を刊行準備中です。今号の巻頭特集は現世に生きるわれわれのすぐ隣にある異界を垣間見てみようという企画、題して「異界からの呼び声」です。チベットの人びとの豊かな想像力の翼に乗ってあちらの世界に出かけてみませんか? 異界特集のために駆けつけてくれた強力なゲストのみなさんの力作をお楽しみに。

文芸翻訳コーナーではペマ・ツェテンの「赤いネッカチーフ」とラシャムジャの「路上の陽光」を掲載。詩のコーナーは今回は巻頭を飾り、チベットのアニメーション作家、白斌氏の映像世界とのコラボレーションとなっています。この他、本格的なペマ・ツェテン映画評など、映画の記事も盛りだくさん。ご期待下さい!